木曽の山中から天下を伺った武将あり [木曽路]

木曽路の中核となる宿場 木曽福島
合併後は木曽町
ここに かの“朝日将軍”と称せられた木曽義仲公の菩提寺がある
興禅寺である

興善寺3.jpg

この奥深い山中にあって天下を志す
お見事
興善寺.jpg

烈婦 巴御前とともに
NHK大河ドラマにぜひ採用を…と
“誘致活動”をしているそうな
興善寺2.jpg


※興禅寺
 木曽義仲公は久寿元(1154)年武蔵国(埼玉県)大蔵館で生まれた。幼名駒王丸。二歳の時父義賢は、兄の子義平に討たれたが、斉藤実盛のはからいでこの近くの上田にあった中原兼達の屋敷にかくまわれて成育した。元服の後、宮の越(日義村)に館を建てて移った。
 治承4(1180)年、以仁王の平家追討の令旨を受け、関東、北信濃の兵を集めて北陸より京都に攻め入り平家を追討。征夷大将軍となり、朝日将軍と称せられた。1184年頼朝の軍に攻められ、近江(滋賀県)栗津原で討ち死にした。年31才。遺髪を納め、分霊はここに眠る。源義仲とも呼ぶ。

 巴御前は27歳。「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」と記される義仲の妻(愛妾とも)。荒馬「春風」に乗って風を切る彼女は、人一倍派手な鎧を着て、大型の弓と大太刀を自在に扱う美しき猛者。宇治川の戦場を13騎で脱出した時、前方に立ち塞がった敵将・畠山重忠をして「かの者は女に非ず、鬼神にも勝る」と言わしめ、追討を諦めさせた勇将だ。




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